先日、大阪市天王寺区が無報酬でデザイナーを募集したという話で、デザイナー業界側から批判が起こり、撤回することとなった。
区が無報酬デザイナー募集…抗議殺到、計画中止 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130302-OYT1T00306.htm?from=ylist
「公共の場所で宣伝が出来るので無報酬でもかまわないだろう」という考えが根底にあったようだ。批判は全くそのとおりだと思う。メディチ家は宣伝できるからという理由で無報酬にしたか。していない。この無報酬デザイナーの件では、Twitter上でも反応している人が比較的多かったように思う。
しかし、翻訳に関してはどうか。
たとえば、「市役所 通訳ボランティア」とGoogleで検索する。そうすると山のようにボランティアの仕事が出てくる。これらの仕事は本当に対価が0で行われるべき仕事なのか。ボランティアに参加する側も「国際交流が出来る」という聞こえのいい言葉にだまされてはいないか。例えばもし営業の仕事を任されて、「人とのコネクションが出来るから」という理由で減給されたらたまったものではないだろう。でも通訳ボランティアではそれが普通だと思われている。
通訳ボランティアの仕事は誰にでも出来る低レベルの仕事だからだろうか。それも違うと思う。先ほどの検索で出てくるボランティアの仕事は、例えば、在留外国人の生活の手伝いだったり、観光に来た外国人旅行客への案内だったり、外語話者の子女教育におけるサポートであったり、これらの仕事はそう簡単に蔑ろに出来るものではない。在留外国人の生活の質に直結したり、外国人旅行客の観光地の評価につながる大きなものである。それは将来的にその街自身に返ってくる。
ただ、この問題は行政を批判するだけでは意味を成さないと僕は思う。ここ最近、実家に帰省しているときにある中国人中学生の支援に何度か中学校を訪問した。その中学生も両親の事情で日本に来ることになり、日本語の勉強を全くしないままこちらにきており、転学当初は同級生はおろか、教師とのコミュニケーションにも事欠く状態であった、と聞いた。実際僕が行った時も、他の生徒とコミュニケーションが取れているとは言いがたく、担任教諭の指示も正確に理解しているとはいえなかった。
この生徒へのサポートは、週1回か2回(記憶があいまい)ほど、残留孤児・華僑の子弟が多い他学校の中国人教師と、ボランティアで来ている中国語話者の女性の方がいらしてされているとのことであった。僕は時間があるときのみだったのでほとんど何もできなかったが、学校長から話を聞くと、予算の都合上ボランティアに来る人の交通費すら出すことが出来ない、とのことで、しかしながら、サポートする方も中学生とは年が離れているので共通の話題が少なく、その点での難しさがあるとのことだった。この生徒はそれでも2年ほどでかなり日本語が上手になっていた(僕なんかは8年もかかってやっと中国語が少し出来るようになったレベルだが)。ここに予算を出せないのは、行政そのものが昨今の財政的問題により出し渋っていることと、それを監督すべき地方自治体の議会がそのボランティアの存在に甘んじて評価をしなくなっていることに問題があるのではないか。「国際交流が出来る」という砂糖の山に群がるアリを、アリジゴクが意のままに食べつくさんとしている。
もし本当に「グローバル化」とかそういうのを言い出すのであれば、ここにかかるコストを軽視してはいけないと思う。「言語は道具だから」というのは外語を勉強しているとよく聞くのだが、道具であるからこそ、正しい使い方を出来る人を適切に評価し、それによって問題が起こらないようにすることが必要なのではないか。外語を勉強しろ、といってもその能力を評価されないのであれば、やる人がいなくなり、ひいては国際化に逆行していく。
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2013年3月8日金曜日
2013年1月23日水曜日
2013年1月23日 日本語:実名報道の可否
1月16日に発生したアルジェリア人質拘束事件(リンク:Wikipedia)から一週間が経過した。留学して以来、日本の新聞を読むことはかなり少なくなったのだが、実名報道について一言言いたくなったのでブログ記事を書くことにした。
2012年1月24日火曜日
2012年1月24日 日本語:議員定数削減は本当に必要か
今年に入って、政治のニュースを見るたびに「議員定数削減」という言葉が今までにまして頻繁に出てくるようになった。議員定数削減に関して、僕は反対だ。思いつくだけでも3つ大きな問題がある。
少数精鋭を求めることが出来るか
議員を減らす、要するに「今よりも少ない議員で今より良い政治を行う」ということである。本当にそんなことが出来るのだろうか。
2011年9月30日金曜日
2011年9月30日 日本語:熱いシャワーを浴びて思ったこと。多文化共生とかなんとか
本当は7月に北京と天津旅行したときのことを書こうと思ったんですが、ちょっと思ったことがあったのでこっちを優先して書いてみます。俗に言う「チラシの裏」というやつです。
昆明に来て早くも3週間になりました。いろいろとありましたが徐々にここの生活に慣れてきたかな、といったところです。寮の中身が所謂留学エージェントのサイトで紹介されているのとは全く違うんですが、この話はまた後日ということで。
ところで、この寮にはシャワー室があるんですが、太陽熱給湯器でこれまたお湯が全然出ない…恐らく水道の使用量に対して設置している給湯器の数が足りないんでしょうが、この涼しい街でシャワー浴びようと思って水が出てくるというのはちょっと困ります。こちらに前からいらっしゃった日本人留学生の方に教えていただいて、学外にある(でも運営は大学関係?)有料のシャワーに行きました。
そこでかなり久しぶりに熱いシャワーを浴びた、というわけなんですが、ここでちょっと思ったことが。僕は日本にいて「お湯を張った浴槽につかる」というのが習慣になっているわけですが、こちらの人にはそれが習慣ではない。僕は「お風呂に浸かる」ことで幸せだな、と思うことがあります。逆にお風呂に浸かれないというのはちょっと不幸せな感じもします。しかしながら、こちらに住んでいる人はシャワーを浴びることに不幸せを感じる、ということは少ないのではないかと。
で、いつもの癖で妄想というか中身がぶっ飛んでしまうわけですが、例えば日本人が「風呂に浸かれないなんてなんて不幸な人びとなんだ」と思ってこちらの人びとにお風呂を普及させて浴槽に浸かれるようにする、そして、「これで雲南の人も幸せになった」と日本人が思う。みたいなことを考えてしまったわけです。
多文化共生に興味がある僕は、こういう文化の押しつけについてどうすべきか、というのをもっと考えていきたいと思いました。上のは飽くまで例であり、しかもただの妄想ですが、「その文化の枠外にいる人間が彼・彼女自身の価値観によってその文化のあり方に口出ししてしまう」というのは世界中で起こっているのではないかな、と思います。
これは逆の事も言えると思います。つまり、上の話は「文化を押しつけること」でしたが、「文化を守らせること」も同じように問題があるのではないか、と。「あなた方の文化は貴重なものなので、その文化を捨てないでください」というのは、実は彼らの選択する権利を奪っているというこです。文化を守ったり捨てたりすることはそれぞれの民族、それぞれの人が決めることであって、他人が決め付けることではない。言ってしまえば、彼らの選択であるならば、その文化を完全に捨てて、他の文化に同化することも許されるべきだと思います。その捨てられた文化を資料として守るのは学者の役割ではないでしょうか。
彼らが選択した結果ではなく、他者が彼らに文化を「守らせる」ことになってしまっていないか。また、彼らに文化を捨てさせようとしていないか。僕が思うに、今の中国は少数民族政策においてその両方の問題点をはらみ、また政府の側もその点を考え始めているところです。非常に興味深い場所だと思います。文化同士が接触して変化していくというのも興味深いです。
昆明に来て早くも3週間になりました。いろいろとありましたが徐々にここの生活に慣れてきたかな、といったところです。寮の中身が所謂留学エージェントのサイトで紹介されているのとは全く違うんですが、この話はまた後日ということで。
ところで、この寮にはシャワー室があるんですが、太陽熱給湯器でこれまたお湯が全然出ない…恐らく水道の使用量に対して設置している給湯器の数が足りないんでしょうが、この涼しい街でシャワー浴びようと思って水が出てくるというのはちょっと困ります。こちらに前からいらっしゃった日本人留学生の方に教えていただいて、学外にある(でも運営は大学関係?)有料のシャワーに行きました。
そこでかなり久しぶりに熱いシャワーを浴びた、というわけなんですが、ここでちょっと思ったことが。僕は日本にいて「お湯を張った浴槽につかる」というのが習慣になっているわけですが、こちらの人にはそれが習慣ではない。僕は「お風呂に浸かる」ことで幸せだな、と思うことがあります。逆にお風呂に浸かれないというのはちょっと不幸せな感じもします。しかしながら、こちらに住んでいる人はシャワーを浴びることに不幸せを感じる、ということは少ないのではないかと。
で、いつもの癖で妄想というか中身がぶっ飛んでしまうわけですが、例えば日本人が「風呂に浸かれないなんてなんて不幸な人びとなんだ」と思ってこちらの人びとにお風呂を普及させて浴槽に浸かれるようにする、そして、「これで雲南の人も幸せになった」と日本人が思う。みたいなことを考えてしまったわけです。
多文化共生に興味がある僕は、こういう文化の押しつけについてどうすべきか、というのをもっと考えていきたいと思いました。上のは飽くまで例であり、しかもただの妄想ですが、「その文化の枠外にいる人間が彼・彼女自身の価値観によってその文化のあり方に口出ししてしまう」というのは世界中で起こっているのではないかな、と思います。
これは逆の事も言えると思います。つまり、上の話は「文化を押しつけること」でしたが、「文化を守らせること」も同じように問題があるのではないか、と。「あなた方の文化は貴重なものなので、その文化を捨てないでください」というのは、実は彼らの選択する権利を奪っているというこです。文化を守ったり捨てたりすることはそれぞれの民族、それぞれの人が決めることであって、他人が決め付けることではない。言ってしまえば、彼らの選択であるならば、その文化を完全に捨てて、他の文化に同化することも許されるべきだと思います。その捨てられた文化を資料として守るのは学者の役割ではないでしょうか。
彼らが選択した結果ではなく、他者が彼らに文化を「守らせる」ことになってしまっていないか。また、彼らに文化を捨てさせようとしていないか。僕が思うに、今の中国は少数民族政策においてその両方の問題点をはらみ、また政府の側もその点を考え始めているところです。非常に興味深い場所だと思います。文化同士が接触して変化していくというのも興味深いです。
2010年12月22日水曜日
2010年12月22日 日本語:長崎での平和教育・平和運動についての雑感(二)
※この記事は2010年12月6日 日本語:長崎での平和教育・平和運動についての雑感(一)の続きです。
前回は平和教育についての雑感を書いた。今回は平和運動に焦点を当ててみようと思う。前回も書いたとおり、建設的な意見を出せないでいることは了承していただきたい。
「平和運動」と言えば、デモ行進や署名運動などの如何にも「行動」という感じのものもあれば、会議や集会など意見の集約、交換に重点を置いたものもある。長崎にいる間、僕も何度か平和運動に参加してきた。「原爆犠牲者慰霊・世界平和祈念市民大行進(以下、市民大行進)」というデモ行進や「高校生一万人署名運動」、「核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ(以下、地球市民集会)」等に参加した。高校生一万人署名運動参加者のために断っておくと、僕は高校3年の時期に少し参加しただけなので、詳しく知っているわけではない。ところどころに誤って認識しているところがあるかもしれない。
上記の活動に関連するリンクを張っておいたので、知らない方は先に読まれてください。
これら平和運動の持つ問題点をこれから考えていこうと思う。
まず第一に、「認知度」について。先ほど述べた3つの運動のうち「市民大行進」と「地球市民集会」は長崎市が主催またはその一部となっている運動である。しかしながら、長崎市民のどのくらいの人間がこの運動を知っているだろうか。ましてや日本国民から見たこれらの運動の認知度はかなり低いと思う。
以前の記憶でいえば、地球市民集会は本格的な討論が行われているようだ。地球市民集会は一般の人も参加できる部分があるが、比較的詳しい人、例えば学者やNGO活動家などが参加しているような集会なので単なる認知度とは切り離して考えていいかもしれない。
市民大行進についてはどうか。示威活動というのは大概にして他に認知されなければ意味をなさないものだ。それなのに実際の認知度というのは、少なくとも僕の印象では低い。平和に関心がある人であっても、市の広報紙を見逃せば実際いつあるのかわかりにくいし、開催後も市広報、地元紙または全国紙の地元面を見なければ活動もよくわからないのではないかと思う。
高校生一万人署名についても同じような事が言える。高校生一万人署名は少なくとも長崎県内のメディアは動向について細かく報道しているように感じる。しかしながらそれであっても長崎市内でさえこの活動を知らない人がいる。僕は小学中学の時点でもうこの活動が始まっていて、夕方にテレビでニュースを見れば時々取り上げられているし、活動の是非は別としても、長崎市民なら大体知っていると思っていた。しかし、僕が高校になって活動に参加していたころ、近所の人と話していると、その方がこの活動の事を知らないということがわかり、大変な衝撃を受けた。
その運動の是非を肯定するにしても否定するにしても、まずは認知度がなければ始まらない。その事を無視して内輪だけで活動するのはただの自己満足ではないか。
今回も長くなってしまったのでここでいったん切ります。次回更新の日程は決めていませんが、おそらく年を越すと思います。皆さんよいお年を。
前回は平和教育についての雑感を書いた。今回は平和運動に焦点を当ててみようと思う。前回も書いたとおり、建設的な意見を出せないでいることは了承していただきたい。
「平和運動」と言えば、デモ行進や署名運動などの如何にも「行動」という感じのものもあれば、会議や集会など意見の集約、交換に重点を置いたものもある。長崎にいる間、僕も何度か平和運動に参加してきた。「原爆犠牲者慰霊・世界平和祈念市民大行進(以下、市民大行進)」というデモ行進や「高校生一万人署名運動」、「核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ(以下、地球市民集会)」等に参加した。高校生一万人署名運動参加者のために断っておくと、僕は高校3年の時期に少し参加しただけなので、詳しく知っているわけではない。ところどころに誤って認識しているところがあるかもしれない。
上記の活動に関連するリンクを張っておいたので、知らない方は先に読まれてください。
長崎市|平和・原爆|平和への取り組み|市民大行進
高校生一万人署名運動
第4回核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ
これら平和運動の持つ問題点をこれから考えていこうと思う。
まず第一に、「認知度」について。先ほど述べた3つの運動のうち「市民大行進」と「地球市民集会」は長崎市が主催またはその一部となっている運動である。しかしながら、長崎市民のどのくらいの人間がこの運動を知っているだろうか。ましてや日本国民から見たこれらの運動の認知度はかなり低いと思う。
以前の記憶でいえば、地球市民集会は本格的な討論が行われているようだ。地球市民集会は一般の人も参加できる部分があるが、比較的詳しい人、例えば学者やNGO活動家などが参加しているような集会なので単なる認知度とは切り離して考えていいかもしれない。
市民大行進についてはどうか。示威活動というのは大概にして他に認知されなければ意味をなさないものだ。それなのに実際の認知度というのは、少なくとも僕の印象では低い。平和に関心がある人であっても、市の広報紙を見逃せば実際いつあるのかわかりにくいし、開催後も市広報、地元紙または全国紙の地元面を見なければ活動もよくわからないのではないかと思う。
高校生一万人署名についても同じような事が言える。高校生一万人署名は少なくとも長崎県内のメディアは動向について細かく報道しているように感じる。しかしながらそれであっても長崎市内でさえこの活動を知らない人がいる。僕は小学中学の時点でもうこの活動が始まっていて、夕方にテレビでニュースを見れば時々取り上げられているし、活動の是非は別としても、長崎市民なら大体知っていると思っていた。しかし、僕が高校になって活動に参加していたころ、近所の人と話していると、その方がこの活動の事を知らないということがわかり、大変な衝撃を受けた。
その運動の是非を肯定するにしても否定するにしても、まずは認知度がなければ始まらない。その事を無視して内輪だけで活動するのはただの自己満足ではないか。
今回も長くなってしまったのでここでいったん切ります。次回更新の日程は決めていませんが、おそらく年を越すと思います。皆さんよいお年を。
2010年10月26日火曜日
2010年10月25日 Esperanto:Transpontisto
Mi lernas multaj lingvoj. La lingvado estas ponto dum homoj. Sed ni ofte havas problemojn interlingve. Nun Japanio kaj Cxinio havas problemon. Mi legas Duan lingvan informo, povas ekscii, ke dua natio ankaux skrivas nur sian bonajxon. Dua mensogas ankauxa... Mi pensas, NUN cxiuj devas "transpontiston". Transpontiston estas Nin, Esperantistojn! Ni konas ponton dum lingvoj. Ni povas transponti nove, grande kaj multe! Mi volas estigxi transpontisto de la mondo.
2010年5月31日月曜日
2010年5月31日 日本語:「新しい選挙制度の提案」
ここ最近、というより今に始まったことではないが、日本の国政はかなり混迷している。強行採決をしたり、問題を放置したり、民主主義についてもう一度中学校から習い直してほしい国会議員ばっかりの政界にはうんざりしている。あと、怪我をしないように保健体育とかも併せて習ってほしい。というか仕事場で暴れるって一般企業じゃ誰がやっても問題になるのに。
選挙権さえまだ持っていない自分でも、一つ提案してみたいことがある。選挙制度改革のことだ。今の選挙制度(特に小選挙区制)では、いってしまえば有権者の数分の一の支持でその地域の代表(本来は国民全体の代表)となって国政に参加することになる。尤も、その上で強行採決をするので、国民の総意と違うこともあり得る。また、この現行の選挙制度において専門性というものが果たして見極められ得るのか甚だ疑問だ。結局自分の地域に対して利益を生む人を選ぶことになってしまう。
今の小選挙区制度はやめて、専門性を見極められる制度にするのはどうか。例えば、まず全国区で選ぶ仕組みにする。しかし、これだけでは只単に特定の組織の支持を固められる議員ばかりになってしまいかねない。そこで、外交や農林水産など専門ごとに分けた区割りを作って、それぞれ議員を選ぶのである。有権者一人一人がすべての専門分野をそれぞれ自分の意見に近い議員を選ぶことで、政党の側も目立たなくして法律を通す(例えば国民の支持を得やすいA法案を選挙の話題として使い、自身が勝つと国民からみると都合の悪いB法案を通す)ことが難しくなるのではないか。ある政党にどの分野においても支持するなんてことはなかなかないだろうし、それぞれのいいところをとっていくことができると考えればいい制度になるのではないだろうか。
この制度を衆参両議院でやる必要はない。同じ選挙制度にしても「参議院は衆議院のコピー」とかいわれるだけだ。参議院だけでやる方がいいのではないか。漢字のイメージで考えている気がしなくもないのだが、衆議院は全体で考えるところで、参議院はしっかりとわかっている人たちが討論する。こうすることでよりまともな政策が生まれるように思えるのだが、果たしてどうだろうか。
2010年4月18日日曜日
2010年4月18日 日本語:「一週間を終えて」
こんにちは。ここ数日ジャガイモが主食になりつつある斧子です。野菜はやはりおいしいです。
早くも新年度授業開始から一週間が経ちました。授業日程もそろそろ確定です。この前公開した授業時間割から変更した点があり、中国語が週5-6コマになりそうです。第一外国語を中国語に変更したのが原因で、授業ごとに履修の許可を尋ねる羽目になったんですが、特に断られる理由もないので無事に行けそうです。放送大学から韓国語の案内が来ないのが気になるんですが…まぁどうにかなるかな。
イタリア語とスペイン語は特に楽しみです。イタリア語は去年NHKのテレビを少し見ていたことやラテン語を履修していたこともあって少し聞きおぼえがある感じです。スペイン語はほとんど触れたことのない言語で、しかしそれでもエスペラントをやっているとスペイン語のSaludos(挨拶)がエスペラントのSaluto(挨拶)と似ているところから推測できたりして面白いです。まぁ伊語も西語もどっちもラテン語の血をひくロマンス諸語だからいろいろ似てるだろうけど。
金曜4限に伊都で中国語III受けた後、箱崎で開講されている6限のスペイン語に行くために学内バスを待っていたものの、あまりにも待っている人が多くて乗れなかった…教職員とTA優先のために学生はわざわざ500円も使って箱崎に行かないといけない。(単位落としまくりだけど)学ぶ意思ある人に金使わせるなんて大学のお偉いさんも“事業仕分け”してふんぞり返ってる政治家も気づいてるんだろうか。お金持ってるかどうかで受ける教育の水準が変わっちゃだめだと思う。これは資本主義世界だけじゃなくて、逆にブルジョワ出身者に高等教育受けさせなかった共産主義・社会主義国家にも言えることなんだけど。
2010年4月6日火曜日
2010年4月6日 日本語:「緊急!中国政府のネット規制に関して」
どうも。先ほどがんばってエスペラントでブログを書き終わって投稿したばかりの斧子です。一日一回一言語の投稿にしようと思った矢先がこれです。中国(大陸)でのFC2のサイトの閲覧が規制されたようです。情報元はFukchangさんです。中共中国政府がやってくれました。
そもそも今の中国ではYoutube、Facebook、Twitter、Bloggerなどが規制されている状態で、ただでさえ中国の国内外での連絡がとりにくいのに、こんどはFC2とか、中国政府もなに考えてるのかさっぱりわかりません。どうせ都合の悪いもんを隠したいんでしょうが、それにしても大半の関係ないのまで巻き込まないといけないのかなぁ…絶対逆効果だと思う。むしろなんで政府はこんなに何でも規制するんだ…っていう流れになりそうな気がするんですけど、そっくりなサイトがあるからか(校内網とか)なかなかそうはならないみたいで…
…にしても、いつも思うのは香港って中国政府に返還された割には意外とまだ自由があるなぁってことです。Facebookでなに検索しても香港のユーザとかページばかりヒットしてかなり面倒くさい。 でもそれだけ香港の人はFacebook使ってるってことです。
いま日本のニュースでFC2の規制に関して何かのってないか調べたんですけど、なにも載ってない…中国どうでもいいと思ってるのかな?それとも日本のメディアも巻き込まれてるのか?いづれにせよ、中国政府には規制を解除してほしいものです。少なくとも個別の規制にしてほしい。巻き込まれた側にとっちゃ迷惑以外の何物でもないのだから。
このブログ書いた後に、いい記事を発見しました。勝手ながらリンクを張っておきます。
2009年11月14日土曜日
2009年11月14日
今回の言語:日本語、汉语普通话, Nederlands
「ビッグオレンジ書店、民主党の小沢さんについて、自炊」
このブログはいつもテーマを先に考えてから中身を書いているのですが、テーマの方向性がばらばらですいません…でもそれも一つの個性ということでよろしくお願いします。
自分の所属する21世紀プログラムには「課題提示科目」という授業があり、課題提示科目では普段だったら絶対会うことができないような方々が授業の講師として来たりします。土曜日に授業が行われることが多く、今日もその授業があり、その後ビッグオレンジ書店に行きました。ビッグオレンジ書店は九大伊都キャンパスセンターゾーンにある大学生協の書店です。ビッグオレンジって何だよっっと思われるかもしれませんが、そこは聞かないでください…で、そういう書店があり、今日なぜそこに立ち寄ったのかと言うと、三修社の「ゼロから始めるモンゴル語」という本を取り寄せてもらうためです。ビッグオレンジ書店は本屋としては小さい部類に入ると思います。しかし語学関連は大学生協の書店と言うだけあってそこそこあります。と言ってもやはり第二外国語で履修できるものが大半ですが。何気に「バスク語のしくみ」とか置いてあります。この「~語のしくみ」シリーズは結構読みやすくて好きなんですけど、バスク語が置いてあるってのはすごいですよね~ちなみに言うと、語学関連はものすごく隅に置いてあります。本当に隅に置いてあって語学コーナーは一人二人そこにいたらもう本が取りづらい場所にあります。あれはどうにかしてほしいなぁ…
つい最近のニュースで聞いた話、民主党の小沢さんが和歌山県に行ってお坊さんと会談した後に「仏教は寛容、キリスト教、イスラム教は不寛容だから世界中に仏教を広めよう」といった趣旨のことを話されたようですが、それってどうなんでしょう?自分は「まずあんたが不寛容だろ」と年齢差や立場を気にせず二人称に「あんた」を使いたくなる衝動に駆られたのですが。仏教が寛容でキリスト教、イスラム教が不寛容というようなことを一国の与党のお偉いさんが幾ら票集めに躍起になっていても行っていいことではないな、と思います。自分は家として仏教の信仰ですが、まぁそこは日本仏教なんでクリスマスは祝うし、正月には神社に行くし、自分なんかはつい最近ラマダーンを一日体験してみたりもするんですが、日本の仏教でも他宗を攻撃したことで存在を示したものもあるし、イスラム教でもムガル帝国のアクバルのジズヤの廃止などなど異教徒に対して不寛容であったとは必ずしもいえないのではないでしょうか。小沢さんが民主党(というか自分の勢力の)拡大に躍起になっているのはよくうわかるのですが、それと同時に無知が何をもたらすかということもよくわかる話でした。
さて、今日の晩飯はかまぼこ入り卵チャーハン、コーンポタージュ薄めすぎ、ジャスミンティーです。コーンポタージュは溶かすやつで薄めすぎて味がなくなってました…ジャスミンティーは今日の授業前に買ったペットボトルから移し換えただけです。卵炒飯はこれまた味が薄くて…マカオで食べた卵炒飯がめっちゃうまかったです。感動するレベルでした。あの水準まで自分の料理の腕を持っていければと思っている今日この頃です。
“今天做菜,澳门的回忆”
我今天做晚饭,蛋炒饭,玉米羹和茉莉花茶。蛋炒饭和玉米羹味道几乎没有…我想了起来在澳门吃的蛋炒饭。今年九月我去中国旅游的时候,从珠海去澳门。那天下着雨一点点。我饿了。很想吃什么。发现一个“吃茶店”,我吃了蛋炒饭。那蛋炒饭非常好吃,好好吃,好吃死了!!!我感口福而且这店里谁也说粤语,语言阿宅的我很感幸福。
"Ik ben..."
Ik ben studeren van Kyushu Universiteit. Ik ben Japans. Ik ler Nederlands.
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