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2011年5月15日日曜日

2011年5月15日 汉语普通话:我推荐的长崎旅游景点(一)

   这次我来介绍长崎市内的几个旅游景点。

   长崎市是在日本九州岛西方的一座城市。人口约有四十万多,可能一般中国人听出来四十万的人口感觉很农村,但日本人来说中程度的城市。

   江户时代,长崎是一座很重要的城市,跟荷兰、清朝贸易的港口。明治时代以后不仅荷兰人和中国人,而且欧美人也来长崎做生意。加之,世界上第二座原子弹爆炸的城市。

   长崎的很多建筑跟历史有关。这次我介绍四个旅游景点。今天介绍的景点都在南山手地区。

   首先,我推荐大浦天主堂。长崎有很多天主教徒。江户时代之前,很多人信天主教。但江户幕府禁止了信天主教,所以有些人放弃信教,其他有些人秘密地信天主教。明治时代以后许可信教的自由。法国人来长崎做一个天主堂,这是大浦天主堂。这座天主堂朝“26圣人殉教之地”西坂建立。

   天主堂旁边有哥拉巴园。哥拉巴园是一所公园,公园里有很多有历史的建筑。哥拉巴是一个英国人的名字,他明治时代来长崎做贸易生意。我们看到他的房子和庭园、还有其他那时候建筑。公园在长崎市南部的斜坡上,对面看到三菱造船所工厂和稻佐山。

   下坡后,你可能发现一个有中国感觉的大楼。这是“四海楼”,一个很有名的中国菜馆。长崎有好多唐人,唐人街也有(但是不太大)。四海楼的创始者发明ちゃんぽん(Champon)。这是一种面条之类,有很多海鲜,营养丰富的菜。

   四海楼后面也有一座大楼叫为旧香港上海银行长崎支行纪念馆。我觉得在长崎最西洋的感觉在这座建筑。上海外滩那边的建筑一样,石大厦面对海岸。现在填拓海岸,离海岸远了一点。晚上外面开灯,有很浪漫的感觉。

2011年1月13日木曜日

2011年1月13日 日本語:休暇の計画とか何とか。

 皆さん明けましておめでとうございます。僕は今日から20歳です。と言ってもそんなに実感がわかないですね。特に何があるって言うわけでもないんで、普段通りの一日を過ごしました。これからもよろしくお願いします。

現在の留学生のクラスでは来週テストがあり、すぐに長期休暇に入ります。旅行という事も考えたのですが、休みの期間が一カ月ほどあることと、年末に広東辺りを回ったのもあって、今回は一度帰国する事にしました。広東の話はまた遠くならないうちに記事にするつもりです。万博もおんなじこと言ってた気もしますが多分気のせいです。

まだ詳しい計画は決めていないのですが、訪問する予定の都市は大体決定しています。上海、北京、天津、青島、下関、大分、別府、福岡、柳川、長崎は行く予定です。青島-下関間のフェリーは予約を入れました。15:30チェックイン、20:00出港、翌々日9:30下船ということで、なかなか長い船旅です。予約した後に冬だから海荒れてるんじゃないかということに気づいてしまったのは秘密です。

青島-下関間以外にも、日中間の国際航路として上海-大阪間(新鑑真号)や天津-神戸間(燕京号)等があります。今回この青島-下関間のオリエントフェリーにしたのは、搭乗時間が比較的短く、到着地も実家に近く、学生を料金だと1000元を切るほど安かったからです。

飛行機で帰れば上海-福岡便も上海-長崎便も有るにはあるのですが、どうしても高いし、かと言って春秋航空に乗れば安いんですが、茨城から九州まで移動する事を考えるとあまり変わらないような気もするので今回はやめることにしました。

そんなわけで、旧正月(春節)は長崎で過ごすことになりそうです。聴くところによると上海は外地人がみんな帰省するのでそんなに賑やかじゃないとか。長崎のほうがランタンフェスティバルとかがあるだけ賑やかかもしれません。

ところで、長崎-上海間にカジノ船を就航する予定があるそうです。
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ハウステンボス、長崎~上海でカジノ船運航へ 公海上で営業 産経新聞 1月7日(金)19時13分配信 
http://bit.ly/icQA1h
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これが就航するとかなり安く実家に帰る事が出来るので是非就航してほしいです。大正時代にも長崎-上海間には客船が就航していたらしいです。当時は両都市ともに「アジアの国際都市」として存在感があっただろうし、いろんな人が乗っていたのかな、なんて考えると楽しいですね。

ではまた。

2010年12月22日水曜日

2010年12月22日 日本語:長崎での平和教育・平和運動についての雑感(二)

※この記事は2010年12月6日 日本語:長崎での平和教育・平和運動についての雑感(一)の続きです。
 
 前回は平和教育についての雑感を書いた。今回は平和運動に焦点を当ててみようと思う。前回も書いたとおり、建設的な意見を出せないでいることは了承していただきたい。
 
 「平和運動」と言えば、デモ行進や署名運動などの如何にも「行動」という感じのものもあれば、会議や集会など意見の集約、交換に重点を置いたものもある。長崎にいる間、僕も何度か平和運動に参加してきた。「原爆犠牲者慰霊・世界平和祈念市民大行進(以下、市民大行進)」というデモ行進や「高校生一万人署名運動」、「核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ(以下、地球市民集会)」等に参加した。高校生一万人署名運動参加者のために断っておくと、僕は高校3年の時期に少し参加しただけなので、詳しく知っているわけではない。ところどころに誤って認識しているところがあるかもしれない。


  上記の活動に関連するリンクを張っておいたので、知らない方は先に読まれてください。
  

     長崎市|平和原爆平和への取り組み|市民大行進



  高校生一万人署名運動
  

     第4回核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ




 これら平和運動の持つ問題点をこれから考えていこうと思う。


 まず第一に、「認知度」について。先ほど述べた3つの運動のうち「市民大行進」と「地球市民集会」は長崎市が主催またはその一部となっている運動である。しかしながら、長崎市民のどのくらいの人間がこの運動を知っているだろうか。ましてや日本国民から見たこれらの運動の認知度はかなり低いと思う。
 以前の記憶でいえば、地球市民集会は本格的な討論が行われているようだ。地球市民集会は一般の人も参加できる部分があるが、比較的詳しい人、例えば学者やNGO活動家などが参加しているような集会なので単なる認知度とは切り離して考えていいかもしれない。
 市民大行進についてはどうか。示威活動というのは大概にして他に認知されなければ意味をなさないものだ。それなのに実際の認知度というのは、少なくとも僕の印象では低い。平和に関心がある人であっても、市の広報紙を見逃せば実際いつあるのかわかりにくいし、開催後も市広報、地元紙または全国紙の地元面を見なければ活動もよくわからないのではないかと思う。
 高校生一万人署名についても同じような事が言える。高校生一万人署名は少なくとも長崎県内のメディアは動向について細かく報道しているように感じる。しかしながらそれであっても長崎市内でさえこの活動を知らない人がいる。僕は小学中学の時点でもうこの活動が始まっていて、夕方にテレビでニュースを見れば時々取り上げられているし、活動の是非は別としても、長崎市民なら大体知っていると思っていた。しかし、僕が高校になって活動に参加していたころ、近所の人と話していると、その方がこの活動の事を知らないということがわかり、大変な衝撃を受けた。
 その運動の是非を肯定するにしても否定するにしても、まずは認知度がなければ始まらない。その事を無視して内輪だけで活動するのはただの自己満足ではないか。


 今回も長くなってしまったのでここでいったん切ります。次回更新の日程は決めていませんが、おそらく年を越すと思います。皆さんよいお年を。

2010年12月6日月曜日

2010年12月6日 日本語:長崎での平和教育・平和運動についての雑感(一)

  始めに、建設的な意見ではないという事を言っておく。飽くまで個人的雑感である。否定的な意見も多い。僕は、少なくとも現時点では教育に携わる立場にはいないので、教育関係者から見れば適当な事を言っているように見えるかもしれない。

  僕は小学校で平和委員会に所属、中学校で平和人権推進委員会委員長に就任し、高校には平和委員会がなかったものの、地球市民集会ナガサキに高校代表として参加したり、高校生一万人署名運動に一時期参加するなどした経験がある。そのうえで自分なりに考え、思った事をこれから書き記してみようと思う。

  長崎県は県都が被爆都市である経緯から、原爆被害に関する平和教育に関しては熱心で、僕の知る限りは小中高全ての学校で毎年8月9日を登校日に設定して平和集会が開かれるし、「総合」の時間のテーマとしても原爆・平和問題が取り上げられることも多い。ただ、長崎での平和教育にいくつか問題点が含まれているのではないかと思う。

  まずはじめに、生徒の関心の問題がある。自分の経験した平和集会では体育館で被爆者による体験講話を聞いて、教室で感想を書くというような流れを毎年繰り返すだけで、生徒の側も勿論ちゃんと聞いている生徒もいるが、寝ている生徒もいるし、話を聞かなくとも「原爆は恐ろしい、平和は大切だ」という事を書けば家に帰れるのだから、暑い中まじめに聞くのがいやだ、という生徒も多かった。中学時代には委員会で教師主導で劇をやった事もあるが、いまになって考えてみると、委員会として参加したものは「劇」の練習をしただけで、原爆についての新しい事実を知ったり何かを学んだりしたわけではなく、見ている側にとっても、講話の内容が劇に変わった、程度にしかとられなかったのではないか。

  次に、「原爆」という被害の部分のみを伝える、ということに関する問題である。これは去年大学で履修した授業とも関係があるのだけれど、簡単に言うと、「平和で何事も無いようなある日の長崎」に原爆は落ちたのか、ということを全く触れることなく平和教育が進んでしまっているということである。「被害者としての長崎」を見つめる事は多いのだけれど、「加害者としての長崎」を見る事は殊の外少ない。

  最後に、平和教育での「長崎原爆」以外の問題に関する教育の不足である。長崎が「平和の街」としてみられる原点はやはり原爆である。原爆を除けば、三菱の企業城下町として成り立ってきた歴史があるわけだし、原爆の被害を伝えることが平和の街としての名を保ち続ける事だというのはあるのかもしれない。とはいえ、「長崎原爆」以外の平和教育はそれに対して比較的消極的なのではないかという気がする。限られた時間の中で原爆問題にある程度時間を割く以上、そうなってしまうのもどうしようもないのかもしれない。平和を構成するものは原爆だけではない。広島の原爆や、他都市での被害、連合国側や枢軸国他国での戦禍に関する事や、他の戦争についても知るべき事がたくさんあるし、同和問題や障害者の人権もあれば、国際理解なども国際観光都市になるつもりがあるのなら、尚更知らなければならない事ではないか。

  思いのほか長くなってしまったので、以降をまた後日に書くことにする。