本当は7月に北京と天津旅行したときのことを書こうと思ったんですが、ちょっと思ったことがあったのでこっちを優先して書いてみます。俗に言う「チラシの裏」というやつです。
昆明に来て早くも3週間になりました。いろいろとありましたが徐々にここの生活に慣れてきたかな、といったところです。寮の中身が所謂留学エージェントのサイトで紹介されているのとは全く違うんですが、この話はまた後日ということで。
ところで、この寮にはシャワー室があるんですが、太陽熱給湯器でこれまたお湯が全然出ない…恐らく水道の使用量に対して設置している給湯器の数が足りないんでしょうが、この涼しい街でシャワー浴びようと思って水が出てくるというのはちょっと困ります。こちらに前からいらっしゃった日本人留学生の方に教えていただいて、学外にある(でも運営は大学関係?)有料のシャワーに行きました。
そこでかなり久しぶりに熱いシャワーを浴びた、というわけなんですが、ここでちょっと思ったことが。僕は日本にいて「お湯を張った浴槽につかる」というのが習慣になっているわけですが、こちらの人にはそれが習慣ではない。僕は「お風呂に浸かる」ことで幸せだな、と思うことがあります。逆にお風呂に浸かれないというのはちょっと不幸せな感じもします。しかしながら、こちらに住んでいる人はシャワーを浴びることに不幸せを感じる、ということは少ないのではないかと。
で、いつもの癖で妄想というか中身がぶっ飛んでしまうわけですが、例えば日本人が「風呂に浸かれないなんてなんて不幸な人びとなんだ」と思ってこちらの人びとにお風呂を普及させて浴槽に浸かれるようにする、そして、「これで雲南の人も幸せになった」と日本人が思う。みたいなことを考えてしまったわけです。
多文化共生に興味がある僕は、こういう文化の押しつけについてどうすべきか、というのをもっと考えていきたいと思いました。上のは飽くまで例であり、しかもただの妄想ですが、「その文化の枠外にいる人間が彼・彼女自身の価値観によってその文化のあり方に口出ししてしまう」というのは世界中で起こっているのではないかな、と思います。
これは逆の事も言えると思います。つまり、上の話は「文化を押しつけること」でしたが、「文化を守らせること」も同じように問題があるのではないか、と。「あなた方の文化は貴重なものなので、その文化を捨てないでください」というのは、実は彼らの選択する権利を奪っているというこです。文化を守ったり捨てたりすることはそれぞれの民族、それぞれの人が決めることであって、他人が決め付けることではない。言ってしまえば、彼らの選択であるならば、その文化を完全に捨てて、他の文化に同化することも許されるべきだと思います。その捨てられた文化を資料として守るのは学者の役割ではないでしょうか。
彼らが選択した結果ではなく、他者が彼らに文化を「守らせる」ことになってしまっていないか。また、彼らに文化を捨てさせようとしていないか。僕が思うに、今の中国は少数民族政策においてその両方の問題点をはらみ、また政府の側もその点を考え始めているところです。非常に興味深い場所だと思います。文化同士が接触して変化していくというのも興味深いです。
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