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2013年11月23日土曜日

2013年11月23日 日本語:婚学™とは全く関係ない大学生活の話

  ここ数日婚学™の話ばっかりして頭が疲れたので、ちょっと別の話をしようかと。それにこのブログの更新頻度が低いし…ぜひ最後まで読んでください。(投稿当日の20:52に下から2つ目の段落を追加しました。)

  大学に入ってから間もないとは言わないまでもそこまで時間がたっていなかったころ、キャンパス内で知らない学生から声をかけられた。「君、今の大学生活に満足してる?」と。僕は「そうですね、まぁまぁじゃないですか」となんとなく返事をした。彼らが言うには彼らはボランティアサークルに所属しているらしい。

  彼らは続けて「君1年なんだ、いま大学生活始めたばかりで不安に思ってたりすることとかあるよね?」と聞いてきた。確かに大学生活といっても始まったばかりで、それなりにクラス内の交流が多い所ではあったが、家の中だけでなく大学内でも一人で行動していることが多々あった。小中高もあんまり大勢と絡むのが好きなタイプではなかったが、家でも喋らないようになると少なからず精神的なダメージも出てくる。

2013年3月8日金曜日

2013年3月8日 日本語:通訳ボランティアは「誰得」なのか

先日、大阪市天王寺区が無報酬でデザイナーを募集したという話で、デザイナー業界側から批判が起こり、撤回することとなった。

区が無報酬デザイナー募集…抗議殺到、計画中止 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130302-OYT1T00306.htm?from=ylist

「公共の場所で宣伝が出来るので無報酬でもかまわないだろう」という考えが根底にあったようだ。批判は全くそのとおりだと思う。メディチ家は宣伝できるからという理由で無報酬にしたか。していない。この無報酬デザイナーの件では、Twitter上でも反応している人が比較的多かったように思う。

しかし、翻訳に関してはどうか。

たとえば、「市役所 通訳ボランティア」とGoogleで検索する。そうすると山のようにボランティアの仕事が出てくる。これらの仕事は本当に対価が0で行われるべき仕事なのか。ボランティアに参加する側も「国際交流が出来る」という聞こえのいい言葉にだまされてはいないか。例えばもし営業の仕事を任されて、「人とのコネクションが出来るから」という理由で減給されたらたまったものではないだろう。でも通訳ボランティアではそれが普通だと思われている。

通訳ボランティアの仕事は誰にでも出来る低レベルの仕事だからだろうか。それも違うと思う。先ほどの検索で出てくるボランティアの仕事は、例えば、在留外国人の生活の手伝いだったり、観光に来た外国人旅行客への案内だったり、外語話者の子女教育におけるサポートであったり、これらの仕事はそう簡単に蔑ろに出来るものではない。在留外国人の生活の質に直結したり、外国人旅行客の観光地の評価につながる大きなものである。それは将来的にその街自身に返ってくる。

ただ、この問題は行政を批判するだけでは意味を成さないと僕は思う。ここ最近、実家に帰省しているときにある中国人中学生の支援に何度か中学校を訪問した。その中学生も両親の事情で日本に来ることになり、日本語の勉強を全くしないままこちらにきており、転学当初は同級生はおろか、教師とのコミュニケーションにも事欠く状態であった、と聞いた。実際僕が行った時も、他の生徒とコミュニケーションが取れているとは言いがたく、担任教諭の指示も正確に理解しているとはいえなかった。

この生徒へのサポートは、週1回か2回(記憶があいまい)ほど、残留孤児・華僑の子弟が多い他学校の中国人教師と、ボランティアで来ている中国語話者の女性の方がいらしてされているとのことであった。僕は時間があるときのみだったのでほとんど何もできなかったが、学校長から話を聞くと、予算の都合上ボランティアに来る人の交通費すら出すことが出来ない、とのことで、しかしながら、サポートする方も中学生とは年が離れているので共通の話題が少なく、その点での難しさがあるとのことだった。この生徒はそれでも2年ほどでかなり日本語が上手になっていた(僕なんかは8年もかかってやっと中国語が少し出来るようになったレベルだが)。ここに予算を出せないのは、行政そのものが昨今の財政的問題により出し渋っていることと、それを監督すべき地方自治体の議会がそのボランティアの存在に甘んじて評価をしなくなっていることに問題があるのではないか。「国際交流が出来る」という砂糖の山に群がるアリを、アリジゴクが意のままに食べつくさんとしている。

もし本当に「グローバル化」とかそういうのを言い出すのであれば、ここにかかるコストを軽視してはいけないと思う。「言語は道具だから」というのは外語を勉強しているとよく聞くのだが、道具であるからこそ、正しい使い方を出来る人を適切に評価し、それによって問題が起こらないようにすることが必要なのではないか。外語を勉強しろ、といってもその能力を評価されないのであれば、やる人がいなくなり、ひいては国際化に逆行していく。






2011年9月30日金曜日

2011年9月30日 日本語:熱いシャワーを浴びて思ったこと。多文化共生とかなんとか

  本当は7月に北京と天津旅行したときのことを書こうと思ったんですが、ちょっと思ったことがあったのでこっちを優先して書いてみます。俗に言う「チラシの裏」というやつです。

昆明に来て早くも3週間になりました。いろいろとありましたが徐々にここの生活に慣れてきたかな、といったところです。寮の中身が所謂留学エージェントのサイトで紹介されているのとは全く違うんですが、この話はまた後日ということで。

ところで、この寮にはシャワー室があるんですが、太陽熱給湯器でこれまたお湯が全然出ない…恐らく水道の使用量に対して設置している給湯器の数が足りないんでしょうが、この涼しい街でシャワー浴びようと思って水が出てくるというのはちょっと困ります。こちらに前からいらっしゃった日本人留学生の方に教えていただいて、学外にある(でも運営は大学関係?)有料のシャワーに行きました。

そこでかなり久しぶりに熱いシャワーを浴びた、というわけなんですが、ここでちょっと思ったことが。僕は日本にいて「お湯を張った浴槽につかる」というのが習慣になっているわけですが、こちらの人にはそれが習慣ではない。僕は「お風呂に浸かる」ことで幸せだな、と思うことがあります。逆にお風呂に浸かれないというのはちょっと不幸せな感じもします。しかしながら、こちらに住んでいる人はシャワーを浴びることに不幸せを感じる、ということは少ないのではないかと。

で、いつもの癖で妄想というか中身がぶっ飛んでしまうわけですが、例えば日本人が「風呂に浸かれないなんてなんて不幸な人びとなんだ」と思ってこちらの人びとにお風呂を普及させて浴槽に浸かれるようにする、そして、「これで雲南の人も幸せになった」と日本人が思う。みたいなことを考えてしまったわけです。

多文化共生に興味がある僕は、こういう文化の押しつけについてどうすべきか、というのをもっと考えていきたいと思いました。上のは飽くまで例であり、しかもただの妄想ですが、「その文化の枠外にいる人間が彼・彼女自身の価値観によってその文化のあり方に口出ししてしまう」というのは世界中で起こっているのではないかな、と思います。

これは逆の事も言えると思います。つまり、上の話は「文化を押しつけること」でしたが、「文化を守らせること」も同じように問題があるのではないか、と。「あなた方の文化は貴重なものなので、その文化を捨てないでください」というのは、実は彼らの選択する権利を奪っているというこです。文化を守ったり捨てたりすることはそれぞれの民族、それぞれの人が決めることであって、他人が決め付けることではない。言ってしまえば、彼らの選択であるならば、その文化を完全に捨てて、他の文化に同化することも許されるべきだと思います。その捨てられた文化を資料として守るのは学者の役割ではないでしょうか。

彼らが選択した結果ではなく、他者が彼らに文化を「守らせる」ことになってしまっていないか。また、彼らに文化を捨てさせようとしていないか。僕が思うに、今の中国は少数民族政策においてその両方の問題点をはらみ、また政府の側もその点を考え始めているところです。非常に興味深い場所だと思います。文化同士が接触して変化していくというのも興味深いです。