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2012年11月25日日曜日

2012年11月25日 日本語:食べ物の写真とSNSの話。


   昨日からこんな話がTwitter上で話題になっているらしい。




で、こんな風に炎上している。

アルファルファモザイク 「なにも考えずにFacebookで食べ物の投稿を毎日してる方々、アフリカは飢餓で苦しんでいます」 北村潤
http://alfalfalfa.com/archives/6093084.html

  このスレのなかの指摘にもあるように、意見を書いた人自身も食べ物の写真をアップしていて、自身にもその問題が返ってきている。ま、そんなのはどうでもいいわけで、

問題は:


  まず一つ目、他の人ができないこと、羨望するようなことを公表することに問題があるのか?人が人に対してする話のなかで、他の人がしていない内容を話すというのはごく当たり前のことではないだろうか。「息吸ってるんですよ」なんて話をされても困る。相手が経験していないだろう話をすることによって相手は新しい知識が得られるし、発話者は相手からの承認を得られる。これはSNSにおいてもかわらないはずだ。相手がうらやむようなことをするのはだめだ、というのは不必要にあらゆるものの基準を下へ下へとずらしてしまうのではないか。生まれてきた場所や性別や身体的条件やいろいろなもので個人個人ができないこと、というのは存在する。これを是正するのは個人の努力や政治的処置や教育によるものであって、相手に情報を見せないというのは何の解決の一助にもならない。

  二つ目に、「美味しい食べ物を食べていることを公表することによって人類幸せになるのでしょうか?」という文言。ではあなたがやっているすべての行動は人類が幸せになるためにやっているのか?と聞き返したい。美味しい食べ物の写真を公表して人類が幸せになる見込みは限りなくゼロに近いと思う。しかしながら、世の中の大半のひとは人類の幸せを考えて一つ一つの行動をしているわけではない。人類の幸せを考えるよりも、個人の承認欲求の方が大事だ。自身の幸福感すら満たせない(満たそうとしない)で、人類の幸せを考えるなんていうのは全く持って偽善だと思う。

  インターネットによって、世界がより近くなっていることは確かだろう。しかしながら、人類のために何かするということは、個々人の意見を抑制することではないはずだ。

  最近、特に震災以降、「他の人はそれができないんだからそれをするのをやめろ」という消極的指示をする人が多い気がする。そういう問題の解決策は、その「それができない他の人」がどうやったらできるようになるかを考えることではないのか。


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