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2010年7月17日土曜日

2010年7月17日 日本語:英語化は国際化か


  こんにちは。昨日実家の長崎に帰省し、今日はとてもいい天気なのにパソコンの前に向かって不健康な状態な斧子です。
  ところで、昨日の新聞でこういう記事を見つけました。ネット上で見つからなかったのが些か残念ですが…
  2010年7月16日付朝日新聞長崎版33面「九大世界最高水準拠点に 『討論文化根付かせたい』拠点長米ソフロニス教授が会見」
  2010年7月16日付西日本新聞福岡版27面「『安全な低炭素社会へ貢献』 九大、世界トップ研究拠点に  拠点長に予定 ソフロニス氏抱負」
  自分としてはこんな素晴らしい大学に在学しているのも非常に光栄に思えるし、これに負けないようなことができるように勉強していかないといけないな、と思うわけですが、このソフロニス氏の会見、抱負を読んでいると、
  「研究者の3割以上を外国人に、公用語を英語にして、日本の大学の文化を改革する狙いも強調した」(上記朝日新聞記事より)
  という一文が目に入った。果たしてこれが大学の研究教育、果ては日本にどのような影響を及ぼすだろうか。
  まず、外国人研究者についての部分について。自分は外国からの留学生が来るのには反対するどころか大歓迎だけれども、なぜ彼は「3割」という数量基準を設けてしまったのだろうか。数ではなくて質で検討すべきではないのか。また九州大学は理学部数学科に女性枠を設置しようとしている(参照 http://www.kyushu-u.ac.jp/pressrelease/2010/2010-03-29-01.pdf http://scienceportal.jp/news/daily/1004/1004051.html )。 数(割合)を優先させてしまうと質が低下する可能性があり、それはアファーマティヴ・アクションによる問題の一つとして挙げられている(参照 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B8%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%86%E5%B7%AE%E5%88%A5 )。高等教育は能力水準によって結果を決めるべきであり、その他の立場などで採否基準を変更してはならないと思う。もしその前段階に少数者に不利な点があるのであればそこを改善すべきであって、寧ろこのアファーマティブアクションはその問題を放置していると言える。
  次に公用語を英語にするという部分について。記事によるとこの拠点長自身は「ギリシャ出身で米国籍を持つ」(上記朝日新聞記事)ということで、おそらく英語を勉強してからアメリカにわたって最高水準の研究をできたのだろうと思うのですが、この人は英語を習得することが世界最高水準の研究をすることと同じだと勘違いしているのではないか。自分はそれは違うと思う。アメリカが最高水準の研究をし、技術を持っているのは英語圏の国だからということではなく、もとからその高水準の研究土壌があって、そこに世界各国から外国語としての英語を勉強してでも行きたいという研究者、技術者が集まってさらに水準を上げていったからではないだろうか。日本がこれからすべきことは公用語の英語化ではなく、日本語を勉強して日本の技術を学びたいという留学生を呼び込むことであり、そのための研究教育にかかわる費用を削減しないことである。もし高等教育、研究を英語でするのであれば、日本語話者が大半を占めるこの日本において、それらの研究と日常との隔離が一層深まってしまう。日本が現代の行動技術に支えられた生活を享受できるのは、外国の技術を日本語に翻訳し、それをより多くの技術者によって改良されてきたからではないか。高等教育研究の英語化はその「翻訳」という段階を放棄するものであり、また、日本そのものの優位性を薄めてしまうものになるのではないかと危惧する。
  九州大学はこの二つの点で最先端であるだけに、不安に思ってしまうのである。勿論、水素研究でも最先端らしいのだけれど。

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