Translate

2010年12月6日月曜日

2010年12月6日 日本語:長崎での平和教育・平和運動についての雑感(一)

  始めに、建設的な意見ではないという事を言っておく。飽くまで個人的雑感である。否定的な意見も多い。僕は、少なくとも現時点では教育に携わる立場にはいないので、教育関係者から見れば適当な事を言っているように見えるかもしれない。

  僕は小学校で平和委員会に所属、中学校で平和人権推進委員会委員長に就任し、高校には平和委員会がなかったものの、地球市民集会ナガサキに高校代表として参加したり、高校生一万人署名運動に一時期参加するなどした経験がある。そのうえで自分なりに考え、思った事をこれから書き記してみようと思う。

  長崎県は県都が被爆都市である経緯から、原爆被害に関する平和教育に関しては熱心で、僕の知る限りは小中高全ての学校で毎年8月9日を登校日に設定して平和集会が開かれるし、「総合」の時間のテーマとしても原爆・平和問題が取り上げられることも多い。ただ、長崎での平和教育にいくつか問題点が含まれているのではないかと思う。

  まずはじめに、生徒の関心の問題がある。自分の経験した平和集会では体育館で被爆者による体験講話を聞いて、教室で感想を書くというような流れを毎年繰り返すだけで、生徒の側も勿論ちゃんと聞いている生徒もいるが、寝ている生徒もいるし、話を聞かなくとも「原爆は恐ろしい、平和は大切だ」という事を書けば家に帰れるのだから、暑い中まじめに聞くのがいやだ、という生徒も多かった。中学時代には委員会で教師主導で劇をやった事もあるが、いまになって考えてみると、委員会として参加したものは「劇」の練習をしただけで、原爆についての新しい事実を知ったり何かを学んだりしたわけではなく、見ている側にとっても、講話の内容が劇に変わった、程度にしかとられなかったのではないか。

  次に、「原爆」という被害の部分のみを伝える、ということに関する問題である。これは去年大学で履修した授業とも関係があるのだけれど、簡単に言うと、「平和で何事も無いようなある日の長崎」に原爆は落ちたのか、ということを全く触れることなく平和教育が進んでしまっているということである。「被害者としての長崎」を見つめる事は多いのだけれど、「加害者としての長崎」を見る事は殊の外少ない。

  最後に、平和教育での「長崎原爆」以外の問題に関する教育の不足である。長崎が「平和の街」としてみられる原点はやはり原爆である。原爆を除けば、三菱の企業城下町として成り立ってきた歴史があるわけだし、原爆の被害を伝えることが平和の街としての名を保ち続ける事だというのはあるのかもしれない。とはいえ、「長崎原爆」以外の平和教育はそれに対して比較的消極的なのではないかという気がする。限られた時間の中で原爆問題にある程度時間を割く以上、そうなってしまうのもどうしようもないのかもしれない。平和を構成するものは原爆だけではない。広島の原爆や、他都市での被害、連合国側や枢軸国他国での戦禍に関する事や、他の戦争についても知るべき事がたくさんあるし、同和問題や障害者の人権もあれば、国際理解なども国際観光都市になるつもりがあるのなら、尚更知らなければならない事ではないか。

  思いのほか長くなってしまったので、以降をまた後日に書くことにする。

2010年12月6日 Bahasa Indonesia: Saya mau berjalan-jalan.

Selamat datang di blog saya.Saya tidak menulis artkel bahasa indonesia enam bulan.

Saya suka berjalan-jalan. Saya memperkenalkan dua kota yang saya pernah berejalan-jalan.

#1 Chichijima, Jepang

Sepuluh tahun yang lalu, Saya dan keluarga saya ke Chichijima. Chichijima ada di Samdra Pasifik. Chichijima pulau kecil. Tidak ada kota besar. Kami dengan kapal laut satu hari ke situ. Laut dan langit indah sekali. Siang kita bisa berenang di laut. Malam kita bisa melihat bintang-bintang.

#2 Hirosaki, Jepang
Hirosaki ada di Jepang utara. Saya ke Hirosaki musim dingin. Musim dingin turun salju di Hirosaki. Saya pertama kali melihat "dunia putih". Satu istana tua ada di Hirosaki.

Dua kota pemandangannya bagus sekali.

2010年12月1日水曜日

2010年12月1日 日本語:ジョーク2つ。

*下の話は共にジョークです。もし「ブラック」ジョークが好きでないならば、ミルクと砂糖を用意するか、見ずにはなれてください。
*かなりの固定観念が含まれています。
*この記事はひとつ前の2010年12月1日 Esperanto:Dua blagoj の日本語訳です。

-----

ある人が何かをしようとお偉いさんに頼みに行く。すると質問してくる。

アメリカでは、「あなたの肌の色は何色かな?」
中国では、「お前は都市戸籍かそれとも農村戸籍か?」
北朝鮮では、「ドルは持ってるんだろうな?」
日本では、「血液型何型なの?」

-----

あるアメリカ人が日本人に言った。「何で鯨を食べるんだ?とっても賢いのに!」
日本人は「その通りですね!これからは愚かなものを食べましょう」
その晩、アメリカ人は失踪した。

ある日本人が韓国人に言った。「何で犬を食べるんだ?とっても可愛いのに!」
韓国人は「その通りですね!これからは醜いものを食べましょう」
その晩、日本人は失踪した。

ある韓国人がイギリス人に言った。「何でイギリス料理を食べるんだ?とってもまずいのに!」
イギリス人は「その通りですね!これからはおいしいものを食べましょう」
その晩、韓国人は失踪した。

あるイギリス人がアメリカ人に言った。「何でアメリカの料理を食べるんだ?とっても不健康なのに!」
アメリカ人は「その通りですね!これからは健康にいいものを食べましょう」
その晩、イギリス人は失踪した。

-----------

ブログにコメントください!(これはジョークではありません)

2010年12月1日 Esperanto:Dua blagoj

*Jenaj rakontoj estas blagoj. Se vi malamas "nigra"-n humoron, vi devas prepari lakton kaj sukeron aux foriri senlege.
*Gxi enhavas multajn fiksajn ideojn.

-----

Iu petis al mastro por voli fari ion. Do la mastro demandis al li.

En Usono: "Kian hauxtokoloron vi havis?"
En Cxinio: "Via stato estas urba aux provinca?"
En Nord-Koreio: "Cxu vi havas Usonan dolaron?"
En Japanio: "Kio estas via sangogrupo?"

-----

Una usonanon diris al una japanio, "Kial vi mangxas balenojn? Ili estas tre sagxaj!"
Li respondis tion, "Mi pensas trafe. Do ni mangxos malsagxan ion."
Tiu nokte, la usono malaperis.

Una japanion diris al una koreo, "Kial vi mangxas hundojn? Ili estas tre amindaj!"
Li respondis tion, "Mi pensas trafe. Do ni mangxos malamindan ion."
Tiu nokte, la japanio malaperis.

Una korean diris al una anglo, "Kial vi mangxas Anglajn kuirajxojn? Ili estas tre malbongustaj!"
Li respondis tion, "Mi pensas trafe. Do ni mangxos bongustan ion."
Tiu nokte, la koreo malaperis.

Una anglo diris al una usono, "Kial vi mangxas usonajn kuirajxojn? Ili estas tre malsanigaj!"
Li respondis tion, "Mi pensas trafe. Do ni mangxos sanigan ion."
Tiu nokte, la anglo malaperis.

-----------

Bonvolu opinii al mia blogo! (Gxi ne estas blago.)

2010年11月16日火曜日

2010年11月16日 日本語:崇明島に行ってきた。(2日目)

  前回投稿からかなり日が開いてしまいました。お久しぶりです。

  先月19日に日本語で「崇明島に行ってきた。(1日目)」を投稿しました。今回はその続き、2日目です。

  7時に起床。昨日早く寝たせいもあって、とても気持ちのいい目覚めでした。そして宿の人に言って前衛生態村の入り口まで送ってもらいました。ちょうど軽自動車が止まっていて、軽自動車って言うのは要するに白タクなのですが、その人と交渉して、まず西沙湿地に行ってもらうことにしました。

  30分以上車に乗り、西沙湿地に着きました。西沙湿地は崇明島の西端に位置し、国家地質公園に指定されています。意外と団体客で賑わっています。入口にはチケット売り場[售票处]と書いてあったのですが、お金は取られませんでした。中に入ると、広大な湿地に道があってそれをひたすら歩き続けることになります。子供連れとかだと、子供が興味なかったら大変かもしれません。湿地帯の中にさまざまな動植物がいるのですが、多くの人が竹を割いてひもをたらしたような竿を持っていて、何をしているのかと思ったら蟹、俗に言う上海蟹を釣っているようです。ある子供は「蟹が怖い」とか言って逃げていました。ちなみに、釣りは禁止だという看板がありましたが、これがおそらく中国なんでしょう。鳥の群れや長江なんかも見る事が出来ます。

  車に戻り、昨日上陸した南門碼頭に近いところにある崇明学宮に着きました。崇明島の歴史がわかる史料館、といった感じでしょうか。それほど大きくはないですが、元、宋、明、清等の各時代の壺や装飾品、崇明島で活躍した人物の紹介などを展示しています。1327年に最初のものが建てられ、1622年に現在の学宮が建てられたそうです。いくつか建物があるのですが、先ほどとは別の建物には崇明島で使われた農作業の道具や衣装が展示してあったり、崇明島における塩田での塩の生産についての展示があったりと、非常に勉強になります。

  道路を渡って瀛洲公園へ。よくある中国の公園です。売店があったので、飲み物でも買おうと思って入りました。どういうきっかけでばれたか忘れましたが、売店のおじさんに僕が日本人であるということが分かると、ものすごく楽しそうな顔をしていろいろと聞かれました。どこの大学に留学しているのか?とか、親の仕事は何だ?とか。僕自身も中国に留学はしているものの、なかなか現地の人と話す機会というのは少ないので、いろいろと話しました。おじさんのほうも「うちの子も大学に行っているけど、学費が高いんだよ。」とか「前衛村は一回行ったけど、そこまで面白くないね」とかいろいろと話してもらえていい経験になりました。結局2時間近く話しました。

  公園から河岸のほうに出て、「崇明島」と書いてある石碑のところへ行きました。崇明島自体には特にこれといったものがないので、この石碑が崇明島でもっとも有名な観光地のようです。団体客が相当いました。北京でいう天安門、長崎でいう平和祈念像、といったところでしょうか。とはいえ、ただの石碑です。

  1時半に南門碼頭へ戻り、切符を買いました。実は帰宅する前にもう一つよる予定のところがありました。といってもこの崇明島ではありません。とりあえず、船に乗り上海市街側に戻ります。

  宝楊碼頭に着きました。ここから歩いて目的地へ行きます。10分以上歩いたでしょうか、臨江公園という公園に着きました。ここに抗戦紀念館というのがあります。正式名称は上海淞滬抗戦紀念館、抗戦とは何かというと「抗」日「戦」争、つまり日中戦争における上海での抗日運動についてのものが展示してある記念館です。参観者は老人もいますが若者が結構多いです。崇明学宮で中高年が多かったのとは対照的です。内容は、日本軍が何をしたか、中国の抗戦ゲリラは何をしたか、赤十字の活動についてなどです。入口には「上海市愛国主義教育基地」「東海艦隊戦闘精神教育基地」等の銘板が飾られています。公園の中に紀念館があるわけですが、建物の中に「中国人民の抗日戦争勝利65周年を紀念する!」と書いてあるのはあっても、外側、公園では本屋の屋台が出ていたり、おじいさんが路面に水で書道をしていたり、とても平和な感じです。

  タクシーで友誼路駅へ行き、軌道に乗って江湾鎮駅まで戻り、今回の旅は終わりです。

  できるだけ早く万博についての記事も更新したいと思っています。それでは、また。